読めば何となくわかった気になる風水入門編

まえがき

 ここ数年来、収益物件をお求めになる中華系のお客様が多くなってまいりました。というわけで、自然とお手伝いさせてい頂く機会も増えて参りました。その中で改めて気づきを得させていただく事も多々ございます。

 今まで縁のなかったもので、新鮮な驚きの一つが風水かもしれません。

お客様が、現地をご覧になられ大変気に入っていただいて、融資もほぼほぼ固いとの事でも最後の風水チェックで購入お見送りとの回答を頂いた事もあります。断られる前に何とかか対策を立てられやしないかと思っておりました。

 というわけで、今回は風水についてです。

1.風水とは

 初見の単語はやっぱりググるしかありません。Wiki情報から。

風水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、「気の流れを物の位置で制御する」という思想。「堪輿(かんよ)」ともいう。

風水 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 筆者のイメージでは、都市、建物の建築にあたりその場所選定で風水の観点から考慮されるものと理解しておりましたが、『墓』の位置決めもその範疇にあるとは意外でした。

都市や建物に適した土地選び、墓に適した土地選びをするのなら、すなわち都市計画という事に他ならないのでしょうか。

概要はこちらになります。

古代からの相宅や相墓といった占いの技術が五行説に基づきつつ総合されて成立した。風水には地理の別名があり、かつて天文が狭義の天文学と天象を基にした占いのアマルガムであったように、風水は狭義の地理学と地理に則っている。そのため風水は大別すると、地形読破の術である「巒頭(らんとう)」と、時間によって変化する天地間の気を判断する「理気(りき)」とに別れる。

陰陽や五行説が相まって作られたようですね。その起源は古く殷・周時代との事です。 過分に占いの要素も大きいようですが、古代であれば占いと科学が混然一体となっていたであろうと伺えます。

2.日本での風水

日本では、広く四神相応という言葉も良く知られておりますが、日本独自の理論らしいです。四神相応を固定化してしまっている点などです。

日本の平安京においても、北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とする対応付けが可能で、背山臨水を左右から砂で守るという風水の観点から正しく京都は四神相応の地であった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』四神相応

 世に名高い、794(ナクヨ)ウグイス平安京でお馴染みの全受験生必須の日本史暗記年号のうちの一つです。

 昭和50年ごろからは東青龍を鴨川に、西白虎を山陰道、南朱雀を巨椋池、北玄武を船岡山に充てる説が主流になったとの事です。筆者が歴史小説を読む限りにおいては、こちらが多かったと思います。どちらにも共通している南方の朱雀にあたる巨椋池ですが、当時は存在しておりましたが、現在では消滅しております。

 内陸部に首都(若しくは都市)を定めるのは、産業革命以前の中世頃が主流だったのではないかと思料されます。農業生産力の向上や経済規模の拡大に伴い、水運による大規模物質の輸送が不可欠となり、それらの集散地としての役割は内陸部の都市では不適になるに従い、近世以降のは河口や湾岸に面する大都市が発展の途を辿っていったと考えられます。

 京都の例を出したので、江戸(東京)の例を挙げさせていただくと

1590年(天正18年)入国した徳川家康(1542~1616、江戸幕府初代将軍)は、京の都(平安京)と同じように、江戸を四神相応(しじんそうおう、中国の陰陽学の原理)、すなわち神獣に守られた都市、東は青龍(せいりゅう)が宿る川(大川、隅田川)、南は朱雀(すざく)が宿る平野、海(江戸湊)、西は白虎(びゃっこ)が宿る大道(東海道)、北は玄武(げんぶ)が宿る山(麹町台地)を配置しました。

東京(江戸)名の由来、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた江戸の町、とは

 江戸も四神相応の地という事のようです。また筆者の知っている記憶では、徳川公江戸入府の頃は、日比谷も入り江だったとかとの話もありますし、また築地本願寺周辺は埋立地であったとの事もありますので、当時と現在の海岸線のイメージはかなり異なっているのではないかと思います。

 ですが、この江戸の四神相応に関しては、当時の文献に残っていないなどという説もあり

ますので、真相はよくわかりません。

あとがき

筆者は、日本独自の発展を遂げていた家相学とかその辺を風水と勘違いしておりました。

本格風水は、地理と天文と範囲がとても広いようです。次回はもう少し具体的に不動産取引の観点から風水を検証したいと思います。

<了>